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遺骨からダイヤモンド [Papa]

先週からスケジュールもご予約もいっぱいいただいて、
おかげ様で、とても楽しく充実した日々を過ごしています[るんるん]
そんなこんなでアメアイもまだ見てないし、
録画のHDもいっぱいになってしまいそう[あせあせ(飛び散る汗)]
そんなこんなの、うれしい悲鳴!(爆)

遺骨をダイヤモンドというのを聞いたのは
もう随分前になるけれども、幼稚園のママ達から。
「もしも旦那が死んだらダイヤにしたい??」と質問された。
みんなその場ではNO[exclamation×2]
と即座に答えた気がする。
恥ずかしかったのかもしれないけど、
事実、私はいらないと思った。(現に離婚してるしな)
「そんなもん身につけてたら再婚できないじゃん!!」
と言った他のママの言葉にうなづいた。
「じゃあ、誰が作るんだろうね??」
と、その場の話は終わったけれども、
よく見るとファミリープランとかあったりして。
確かに私もパパのものならば、欲しいと思ったし、
私の子供達にだって、譲り渡して行くこともできるから、
お墓よりも面倒もなく、いつも一緒でお互いにうれしいかと思った。

現在調べた所では、ライフジェム
(これはアメリカ)と
アルゴダンザ(こっちはスイス)
の二つだけ。
こちらのことは、コメントを書いて下さった方がいますが。。。
私はこのアルゴダンザのほうがよく見えます。
ダイヤも色を付けずにブルーっぽく仕上がっているし、
制作行程などとても詳しく紹介されていました。

とにかく、今はアメリカとスイスでしか出来ないみたい。
料金もダイヤモンド価格[あせあせ(飛び散る汗)]
もしも逆輸入?して帰って来たパパには、
税金などもダイヤモンド並みにかかってるのかしら??
でもケチなダイヤじゃパパは嫌がるわよ〜って。。。
え?1カラットだと248万円[がく~(落胆した顔)]
私は0.2カラットで十分ですけど[あせあせ(飛び散る汗)]

パパの奥さんは、これは私が出すべきよ、と言い切っているけど、
きっと宝くじがあたるまでじっくり待つことになる[モバQ]
でもこういうこと考える時間は、きっと楽しくて、
彼女の痛みも軽くして行くんだろうし、
そして私も、欲しい物が見つかって、手にするまでの楽しみができました。[るんるん]
パパありがとう[揺れるハート]

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いつもありがとうございます。

あくまでもダイヤは構想中[モバQ]
もしもダイヤにするなら、三個作ることになるし、
ダイヤ用の遺骨も必要です。
あぁ、あの時全部持ち帰ります!!と言うべきだったわ[もうやだ~(悲しい顔)]
いつか散骨という夢もまた、先送りになりそうです。


満中陰 [Papa]

昨日は父の満中陰の法要のため、兵庫県まで日帰りしてきました。
(なんのことか↑と思ったら、四十九日の法要のことだった[あせあせ(飛び散る汗)]

前回のお坊さんと代わって、昨日は年配のお坊さんが来てくれました。
前のお坊さんは法名(戒名とは浄土真宗では言わないんだって)
のことでもめてしまい、その後とても高飛車な態度を取られたので、
ちょっと心配をしていましたが、
今回のお坊さんはパパのつけた法名で法要をしてくれました。
それから、そんなことで二枚出来てしまった白木の借りの位牌も
二枚ともちゃんと供養のため持ち帰ってくれました。

今回は、とても心を込めて歌ってくれるので、
あしたのジョーの「サンドバーッグに浮かんできええるぅぅ[るんるん]
みたいな劇的さを感じてしまい、その連想がスイッチだったのか[モバQ]
なんかの舞台を見ているような気分になって[ちっ(怒った顔)]
また吹き出しそうになっちゃいました[たらーっ(汗)]
ごめんなさい。不謹慎です[ふらふら]
が、多分パパもきっとそう思ったと思うよ[モバQ]

こうして法要も無事に終わり、阿弥陀さまの力によって、
パパは四十九日に極楽浄土に渡って行きました[ぴかぴか(新しい)]

パパ、もう私の心配はしないでいいからね[ぴかぴか(新しい)]
でも時々でいいから、私たちのことも見守ってね[ぴかぴか(新しい)]
どうもありがとう[揺れるハート]


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いつもありがとうございます[るんるん]

少しだけ形見分けで、パパの大事にしていた石をもらって来たんだ。
「私よりも石好きだったんだよね。」
ここから話は意外な方向に[グッド(上向き矢印)]
そしてパパの遺骨をダイヤモンドにするとかの話にまでなったんだ。
本物のダイヤを買うのと同じぐらい高いので、
まだ夢の話ですけれども私たち姉妹にとっては、
お墓よりもずっと現実的に思えました。
もうちょっと調べてみます[モバQ]

伽羅の香り [Papa]

これまでの間、暖かいお言葉のメールをたくさんいただきました。
ありがとうございました。
また読んでくださったみなさま、いつもありがとうございます。
楽しいお話とは言えないけれども、何かを感じていただけたら
それは私にとって、うれしいことです。
(それなら、きっとパパも喜ぶはずだ)



パパが亡くなったと連絡をもらってからというもの、
葬儀が終わったその帰り道でも
妹は思い出すたびに「許せない」と涙した。

親の死に目に会えないなんて、そんな不幸なことある?

確かにそうだ。
事故死だったわけではないし、
年末から危なかったというし、
現に奥さんの妹は駆けつけていたのだから。
あちらから連絡をするつもりがなかっただけなのだ。

この三年間の親不孝を詫びれば、
パパだって気まずいだろう、と私は思う。
実は、私は最後を見送ることが出来ただけでも、
驚き、感謝しているのだ。
もう二度と連絡は来ないと思っていたから。
この環境をとうにあきらめていたんだろうし、
相手をもう信じていなかったとも言える。
だから最後を周りに説得されて電話をして来たこと、
それだけでも、その説得してくれた彼女の妹に感謝しようではないか。

妹はそれでも、泣き続けた。
自分から行かなかったことを今度は悔やんで。

それなら私も同罪だ。
でも、それはもういくら泣いても、過ぎてしまったこと。
どうにも出来ない。

あんたは後悔しない性格だからよかったね。
私は死ぬまで後悔する。

妹が私に向かって言った。

後悔しない?
無理にでも会いに行けばよかった。
何度でも電話すればよかった。
私だって思わなくはない。
でも、もうどうしようもないじゃん。
今どうにかしようとしたって、すんじゃったこと。
どうにも出来ないじゃん。
それにね、本当は、パパだって会いたかっただろうと思う。
奥さんだって「会わせてあげたい」という気持ちも
少しぐらいはあったのかもしれない。
もっと早く会わせてあげればよかった、
と最後には奥さんだって泣きながら言ってたじゃん。
でも誰もそう出来なかった。
きっとパパも言えなかった。
それを言い出せば、みんながそれは悲しいんだよ。
パパはそれを望まない。
今、パパは、
お前達もう泣くな!馬鹿だな〜って笑ってると思うよ。
全てのしがらみからも、不自由な肉体からも離れて
私たちに会いたいとパパが思うなら、
すぐに私たちのところに来られるんだから、
パパのためには、もう悲しまなくっていいの。

そう言った時、とてもよい香りの風が、
閉ざされた車の中で吹いた。
あ、ほら!パパだ!
それは、伽羅の香りだった。

妹は、
私にはそんなのわからないもん。
見えないし、聞こえないし、全然わかんないの!
と涙ながらに怒って言った。

そして、また同じように二人の会話は続いた。

やっぱりこんな不幸なこと信じられない。

そう言って、妹は車を降りドアをしめた。
歩き出したかと思うと、急に立ち止まり興奮して言った。

今、伽羅の香りがした!
風がくるくるって私の周りに吹いたの。
南海ちゃんわかった??

その時は、私にはわからなかったけど、
パパは、もう悲しまないでいいよ、って
知らせたに来たんだよね。


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明るい話題ではないけれども、
楽しんで読んでいただければ幸いです。
これでパパのアセンションの暗い部分のお話は終わりです。
これからも、面白いパパのエピソードを思い出したら
いつでも書き綴りたいと思います。
いつもありがとうございます。











遺骨 [Papa]

戒名は使えず、俗名のまま斎場へ向かう。
私は遺影を抱く係だった。
遺影も白黒の花に囲まれていたものは,なぜか不自然に修正されていて
その元になった少し小さな額縁入りのカラーのパパの写真の方を持っていった。
奥さんは「地味にしてください」と再三言ってあったので、
黒塗りの地味なワゴンの霊柩車に付き添っていく。
私と妹は奥さんのお兄さんの車で斎場へ向かった。
別にここで生まれ育った訳でもないから、
どこか回って行く縁のある場所があるわけでもなく、
そのまま斎場へ。
たったの15分足らずの距離だった。

途中で遺影を私だけが持っていたら
妹がひがむのではないかと思って(笑)
途中から妹に持たせてあげた。

斎場に着いて、用意された部屋に入ると、
ここまでです。と静止されたが、
奥さんと娘さんはあと一歩進んで下さい。と言われて
もう一歩だけ進んだ。
妹は泣いていた。
もちろん奥さんも泣いていた。
私は悲しくなって吐きそうになるんじゃないのか?と
昔から心配していたのに、やっぱりあっけらかんと見送っていた。
この3年間というもの、距離も時間も隔てて
すでに時空を超えてしまっていたのかもしれない。
棺に納まったパパも、「パパによく似たおじいさん」のようでもあったし、
ひょっとすると、パパが私たちの悲しみを軽くするために
連絡をよこさなかったんじゃないのか?とすら思えた。
ずっと目の前に居た人が、急に居なくなったら
それは誰でも寂しい。悲しい。
でも私にとってパパはもう遠くの人だったから、
まだどこかで笑っている気がしてならないのだ。
今ここで棺が燃やされても。

見送るとすぐに、家に逆戻りした。
パパの葬儀はあくまでも密葬で、自宅で行うのだ。
家に帰ると、すでに精進落しの料理がお膳で用意されていた。

しばらく休んで、また斎場に戻る。
遺骨はパパのRX7でもどることになっている。
私たちの前を走るRX7が斎場の角を曲がると、
小学生の男の子二人が見つけて歓声をあげた。
「7だ〜!!」笑顔で走って100M以上も追いかけて来た。
そうか、もう作られてないから、見るとうれしいんだね。
パパもきっとうれしいんじゃない?
そんな話を妹とした。

トイレに入っている間に、
みんなは部屋に通された。
すっかり骨になったこれが、パパだったのか。
あまりにあっけなく思った。
パパは不死身だと勝手に私が思っていただけだけど。

係の人が「のど仏」を拾って、小さなつぼに収めた。
それから大きな骨を、ごめんなさいね、といって砕いてから
下から順に軽く説明をしながら、みんなにも詰めるように指示をした。
それから小さな指先の骨が残っていて
それも小さな仏さまとして説明してくれた。
この歳だとほとんど残ることはないのだそうだ。
私の手のひらに、そっとそれをのせてくれた。
最後に係のおじさんは、手袋をはめた手に頭蓋骨を持つと、
「触れるのもこれで最後になりますので、
どうぞ手に取って入れてあげてください。」と私たちを促した。
私と、妹と奥さんがそうした。
他の人はだまって見ていた。
一つだけ、と言って、
奥さんのお兄さんも手にして入れてくれた。
まだそれは暖かくて、
一体私は何をしているのだか、
奇妙な感覚だった。


実は、斎場に行く前に、
つい先日もお葬式を経験した妹が言った。

骨壺にはいくらも入らないから、結局残りは処分されちゃうんだよ。

分骨は縁起が悪いとかいうけど、はじめからそんなことなら
もらえるだけもらって来て、後から散骨出来る所でした方がいいじゃん?
パパは山が好きだったしね。
幸い骨壺はもう一個セットで付いてる。

二人の土壇場での思いつきだったが、斎場で二つの骨壺を出しても
何にも聞かれもしなかった。
ただ、お墓に納骨することになったら、証明書がないと出来ないので、
と言われただけだった。
確かにそうだ。
誰の骨かわからないものを持ってこられても困るだろう。
そんな事件だってあるのかもしれないし。

そして私たちは二つの骨壺を持ち帰るため
きれいな箱に入った、パパの選んだ骨壺を奥さんが抱いてRX7で帰っていった。
それから、もう一つのおまけの骨壺を風呂敷で包んでもらって、
私が抱えて帰った。
車に乗って座っていたら、おなかの辺りがぽかぽかしてきた。
そして、またこれも途中で妹に譲った。
遠赤外線効果かな。
そう言って二人で笑った。

それは、最後まで会えなかった私たちを抱きしめるような
パパのぬくもりのようにも思えた。

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そしてそのまま初七日の法要が行われ、
それが終了した時、
葬儀屋さんがパパの戒名をきれいに書いた位牌と
俗名の位牌を入れ替えてくれた。
お坊さんが許可をしなかったので、終わってからになっちゃったけど、
パパはそんなこと気にしない。
よかったね。
思い通りにしてあげることができて。











神の子羊 [Papa]

葬儀の間中も、それ以外の時間も
ずっとクラッシックが流れていた。

私は昨日握りしめたままになっていた
お別れのメッセージをホテルに持ち帰って書いた。
すでに何を書いたのかも忘れてしまった。
心の中でたくさんの会話をしたから、もうどうでもいいことしか
書くことも残っていなかったのだと思う。
着いてからも葬儀開始間際に、
まだ数枚のカードが残っていたから、
私と妹は子供達の分や、弟の分のメッセージを書いた。

不思議なリズムのお経が終わり、
またクラッシックが流れていた。
お花を棺に入れる時、奥さんが言った。

顔の周りは二人でしてあげてね。
もう私は十分したから。

祭壇からお花を取り分けて葬儀屋さんのお手伝いの女性が手渡してくれる。
菊の花は嫌いだったから全部足下に。
顔の周りは大好きな百合の花、カサブランカで埋め尽くした。
送られていた百合の花も大きく開いたものは、
全部入れて、顔以外何も見えなくなった。

そろそろお別れのお時間です。
恐れ入りますが、ふたをさせていただきます。

そう葬儀屋さんの声がかかった時、
CDが勝手に次の曲に移った。
それまで同じ曲をエンドレスにかけていたらしい。
ヘンデルのラルゴ。
それが次の曲に勝手に移って「あああああああああああ」となり
みんなが慌ててCDを直そうとそちらに向き直った。
私はパパの仕業だと思い、
最後心残りのないように、パパに触れた。
とても冷たくつるつるとしていた。


パパが死んでも、きっと怖いからもう触れないと思うよ。

と、ずっと昔、パパに向かって私は言った。

じゃあ、死んでも化けてでないようにするね。

とパパは答えた。

でもそれじゃあ寂しいから、パパ来てください。ってお願いしたら
その時には出て来てもいいからね。

と言ったら、パパは、

じゃあそうするまで出ないね。

と笑っていた。

そんな話を思い出していた。

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ラルゴは、
通常は女性やカストラートが歌う曲らしいが、
このCDでもテノールの男性が歌っていた。
後から奥さんから聞いたのは、
パパがこの歌が特に好きだったのは、
ミラノ座でこの曲でデビューをして喝采を受けたからだったそうだ。
しかし、何より私が笑ってしまったのは、
その次の「ああああああ」となってしまった曲のタイトルを見た時だった。
その曲のタイトルが「神の子羊」だったから。
「パパは迷える神の子羊なんかじゃない」とでも言いたかったのか、
それとも神の子羊として、神の元に帰るといいたかったのか。
宇宙のいたずらなのか、パパのいたずらなのかわからないけど、
やっぱり最後まで笑わしてくれるなと思ったんだ。


死ぬための準備 [Papa]

葬式は完全に密葬で。
誰にも知らせないこと。
坊主は信用していないから、
般若心境を心をこめて言えばそれでよし。
あとは焼くだけでいい。
骨は墓に入れずに死ぬまで(奥さんが)持っていてくれ。
そう言って立派な骨壺も自分でセレクト済み。
天皇家に献上されるような立派な陶芸家の作品で
パパらしいセレクト。
それは不死鳥のデザインのものでした。

密葬でということは昔から再三言っていた。
葬式も商売だから、見送るほうの心がこもっていれば
そんな物は何も必要ないから、と言っていた。

もしも自分が急に逝ってしまった場合、
奥さんがどうしていいのかわからなくならないように、
昔から、互助会の連絡先も電話のそばにいつでも見えるように吊るしてあった。

しかし、そもそもパパは葬儀をする予定がなかったから、
最後は、どこの宗派でというのは言い残していない。
一応おじいちゃんが西本願寺だったということで、
とりあえずお経を上げてもらうなら浄土真宗だよね?と、慌ててなったらしい。

戒名を決めるのはお坊さんのお仕事。
本来この名前はいくら、この名前ならいくら、というものである。
しかし、パパは戒名まで自分で決めてあった。
お坊さんにしてみれば、勝手に決められても、
その戒名では葬儀は出来ないと、寸前までもめていた。
しかもパパの書いた戒名は、
お坊さんが亡くなった時に使うランクで
僧侶の学びもない者にその名を使えば、総本山から怒られるとのこと。
「俗名で葬儀は行わさせていただきます。」
と、坊さんは言い切り、その後、困った奥さんは葬儀屋さんと話している。
故人の希望どおりにしたいだけなんですが、どうにかなりませんか?
葬儀屋さんは静かにうなづいていた。

通夜の席も、誰にも知らせていないのだから、
訪れるのは最後まで介護をしてくれていた会社の人たちばかり。
みんなとても心から暖かく見送ってくれた。
手紙を書いて来てくれた人も数人いた。
とてもみんなからも大切にしてもらっていたことも
会話の中で感じ取れた。
私たち姉妹の全く知らない3年間がそこにあり、
それを聞くのは、とても気まずい時間だった。
この親切な心優しい人たちにさえ、
「病気の親を見捨てた鬼のような娘達」と責められているような気がした。
それでも私たちは、お礼を言い続け、
頭を下げ続けるだけで、いい訳の一つも出来なかった。

お経が始まると、初めて聞くリズムに
思わず私は吹き出しそうになった。
パパの顔が目に浮かぶ。

もうちょっと上手に歌える人いないの?
ちょっとこの音痴やめさせてくれない?

そんなことをパパなら言い出しかねない。
そんな調子の、私も初めて聞くお経だった。

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準備万端で亡くなったはずのパパも、
密葬のはずが、祭壇まで予定外に作られてしまい、
坊さんまで来てしまって、慌てたことだろうと思う。
「バカ!おっちょこちょい!」と笑っている気がした。


死に装束 [Papa]

知らせを聞いてから、すぐに駆けつけようとしたが、
その日はもうすでに飛行機も新幹線も間に合わず、
もう一度電話をかけ直した妹は、
葬儀の日程を聞き、その両日に行く方が都合がよいらしいと言った。
連絡を聞いた翌日ではなく、もう一日たった通夜から参列することにした。

飛行機で伊丹空港まで。
飛行機の窓から富士山がきれいに見えたらしく、
妹はその写真を撮って後から私に見せてくれた。
妹も出来るだけ冷静に過ごそうと努力しているんだろうと思った。
私たち二人は本当にファザコンと呼ばれるほどのパパっ子だったから。

着いたとき、パパはすでに棺に納められていたが、
死に装束は私が中国で作らせて来た
茶色のシルクのチャイナジャケットだった。
妹からのものとして(彼女はそのことをもう忘れていたが)
バーバーリーの靴下をはかせたと言っていた。

義理なら来なくていいからね。

そう電話で言われというので驚いていたが、
奥さんも、娘達の心のこもった物で見送ろうと
ちゃんと身につけさせてくれていた。

冬にはいつもあのジャケットを着て出かけたのよ。
梅田に行く時とかは、必ずね。
みんながとてもよく似合うとほめてくれたし、
本人もすごく気に入ってた。
南海ちゃんが贈ってくれたものだったしね。

そう言われたら泣けて来た。

本当は連絡しないつもりだった。
パパからも子供達から連絡がない限り
絶対に電話をするなと言われていたし。
でも妹に、
子供達にとっても親なんだからそれはダメだって説得されてね、
パパの約束を破って電話したのよ。

そう言って奥さんも泣いた。

奥さんの妹は、それでも私たちを責めるように
嫌味な言葉を織り込みながらこの三年間のことを語った。
私は喧嘩するつもりはなかったが、
勝手な解釈で自分たちの都合だけを言って退けることは許せなかった。
この三年はパパも介護が必要な状態で大勢のヘルパーが来てくれていたこと、
それから、時に奥さんの兄弟、その子供達が助けて来たことを聞かされた。
私の「想像にはなくもない」話だったけれども、
最後になってそれを責められたからって、どうにも出来ない。
私たちが電話をしなかったことを責めた。
いや、電話は何度もした。
取り次がれなかっただけだ。
相手は都合のいいようにしか記憶もしていないから、
さんざん言いたいことを言って来た。


私たちの前からパパを連れ去ったのは誰ですか?

パパのために一度だって言わないでいるけど、
言いそうになって飲み込んだ。
でもそれ以外の事実はすべて思ったままを伝えた。
奥さんは、
それについては行き違いだったし、
勘違いだったのよ。
と泣いて私に手を差し出した。
私は彼女を抱きしめると、彼女は声を上げて泣いた。
もちろん、パパを最後まで世話して来たのは、あなただ。
最後まで心から愛して、自分を犠牲にしても
心から尽くして来ただろうことはわかる。

そうは言っても、こんがらがった糸は、
そう簡単にはほどける物ではないことも感じていた。

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暗い話題が続いておりますが、
ここからLove&joyまでの変換は常に行われていくというのも
お伝えできるのではないかと思っています。
私は何も考えないから能天気なのではなく、
考えても能天気であるということを(笑)
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虫の知らせ [Papa]

たとえ「虫の知らせ」があったとしても、
その虫の知らせが、一体何を知らせているのか、
すぐにわかる人は極めて少ないと思う。
今、思えば、今回も虫の知らせは数多くやってきたが、
どれもそのイメージや、シンボルを何に結びつけて解釈すべきかわからず、
結果、どのサインも見過ごしてしまったとも言えなくないのだ。

12月29日のこと、
私は友人の元へ出かけた折に、
何故か、延々とパパの話をしていたのだ。
実際、私は東京に居て、パパは尼崎で再婚している。
この3年間は、そこに更にいろいろと複雑な事情が絡み合って
ついに音信不通となっていた。
私からの連絡は取り次がれなくなっていたため、
すでにパパの生死はわからなくなっており、
暮れのお友達との会話の中でも私はそれを伝えていた。
どう考えてもすべてが小説よりも、
はるかに複雑な事情であると思われるが、
それに関わる人々の心情を思えば、
ここに私の独断で書いてしまえることではないので、
それらの事情はここでは割愛させていただくべきだろう。
その「書けない事情」とやらを、その日、初めてお友達に話していた。
別にかわいそうな境遇であるとか、苦労したことを自慢するつもりはないし、
実際私はそれを受け入れて生きているのだから、
なんてことはないのだけれども、私の「水星」たる所以。
じっくりでなく、スピーディーなる体験(笑)
「子供の頃から、年若い時に一気に苦労しちゃったんですね。」と
お友達には言われたのだった。

私はこの3年間、「パパの死」を見つめていた。

もう死んでしまったかもしれない。
まだ生きているかもしれない。
もし生きていても、すでにパパは私を認識しなくなっているのかもしれない。
わからなくなっているならば、それはそれで幸せに暮らしているのだろう。
もし死んでしまっていたとしても、きっとパパは最後まで幸せに生きただろう。

そう思うしかなかった。
私の中では死に対する覚悟は出来ていたものの、
電話をして「何言ってるの?もうパパは死んじゃったわよ」
と聞かされることだけが怖かったのだ。
「死」ということよりも、その言葉の仕打ちが怖かったのだ。
実際、私もまた、そこから逃げ続けていたのだと思う。
数回電話をかけても、取り次がれなくなってからは、
「パパの人生だから」とあっさりとあきらめていたのだから。

終止語られる言葉は、そんな内容だったと思う。
まるで私が懺悔をするかのように、
タロット「13」のカードのごとく、
きっちりと心の整理をするかのように、
心から刈り取りながら語る言葉だった。

それでも帰り道には、
話がどこでどうなって、そんな話になっちゃったのか?
と、自分でも首を傾げてしまう状況だった。
きっと二人の友人達も困惑したに違いない。

そしてその日に見た夢。

家が風で大きく揺れた。
大きく傾いたと思ったら、静かにぱたりと倒れてしまった。
私は何故か妹の家のリビングに居て、妹の旦那がお茶を入れてくれようとした所。
母と妹とその旦那と私の4人だけ。
子供たちは学校だから大丈夫だったかしら?
だめだったかしら?
でも心配はあまりしていない。
家は何も壊れず、静かに倒れたから、
誰も怪我もしていない。
「そうだ、すぐに建築会社に電話してクレーンでつり上げてもらわないとね。」
窓の外を見たら、周りの家は大地震の後のような、
けれども整然と積み重ねられたがれきの山だった。

その翌日の夢。

ストーリーの前後はまるで覚えていないが、
カマイタチに歯をやられてしまい、
前から3本目の歯から3本がスライスされて
きれいに3分の2ほどはがれ落ちた。
歯医者にまた行かないとならないことを思っていた。


これではなんの虫の知らせと思えるだろうか?
でも誰にでも不吉な夢に思えるだろうけれども。
地震?災害?
子供達は居なかったから大丈夫なんだよね??
ただそう思った。

その日、今度は子供部屋のエアコンが壊れて
作動しなくなった。
5年目にしてこの夏から3台目の故障。

そして年も明け
ばたばたと過ごし、6日のこと。
青葉台での打ち合わせに出かける支度をしようとシャワーをしていたら
エコキュートが突如壊れた。
修理必要と点滅。
その日の夜。。。パパが亡くなったとの連絡が妹の携帯に入った。
私の携帯は昨年10月に番号が変わっているため連絡がつかなかったのだ。

「知らせないつもりだった。義理なら来なくてもいいけど。。。」

そんな連絡だった。
え?そういうこと?
度重なる「虫の知らせ」にようやく気がついたが、
気づくにはすでに遅すぎたようだった。

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最後にパパの奥さんから聞いた話によると、
年末の同じ頃、
パパは普段はあがらない右手を(左利きなんだ)
す〜っと優雅に高くのばして何かに触れるようにして微笑んでいたらしい。
おばあちゃんがいるの?と聞いたら、静かにうなづいていたらしい。
それからも度々同じ仕草をしていたと、
奥さんの妹も言っていた。
パパのアセンションの準備がはじまり、33回忌を過ぎて、
すでに本物の仏となったおばあちゃんがお迎えに来ていたんだろうね。









パパのアセンション [Papa]

花.jpg

私がまだとても小さかった時、
パパが私のために歌ってくれる子守唄はイタリア語の「女心の歌」だった。
私は特にその歌が好きだったので、
たぶんリクエストに応えてくれてのことだったろう。
私もよく真似をして
「ラードンネ モッビレ〜 クワ〜ルピューマナ 弁当♪」と歌ったものだ(笑)

パパは東京芸大で声楽を学び、
戦後まもなく、最初の国費留学生としてイタリアへ声楽の勉強に出かけた。
タリアヴィーニに師事し、ミラノ座でのデビューも飾ったが、
時が悪く、費用は急に打ち切られ,
その後しばらくして、帰国を惜しまれながら日本に戻っている。

パパはとても頭の切れる人だったと思うが、
計算だけはしない人だった。
そして何かを創造すること、
芸術的なことなら、なんでもすばらしくこなした。
ファザコンの私にとっては、最高のスーパーマンだった。
唯一の例外はピアノが下手だったことぐらい(笑)
それでも私の子供の頃の自宅にはイタリアから持ち帰った
象牙の鍵盤の立派なピアノがあった。
残念なことに帰国の船便の荷下ろしの時にピアノが落とされてしまい、
ピアノの枠が割れてしまい外身だけ別物に収め直されてしまって、
本当の名前が書かれていないことを、いつも思い出しては文句を言ってたっけ。
更に残念なことに、私も弟もピアノは三日坊主でやめてしまい、
誰もピアノが弾けなかったから、家の立て替えの時に
そのピアノも一緒に解体されてしまったんだよなぁ。

靴をつくったり、帽子をつくったり、
彫金をしたり、セーターを編んだり。
どれも教えられなくても見よう見まねで作っていた。
美容の仕事もそうだった。
美容と言っても髪の毛でアート作品を作っていた。
10年早かったと言われる天才は大勢いるけれども、
パパの場合は50年ぐらい早かったのでは?と遠慮がちにも思う。
時代のほうがそぐわなかったのかもしれない。
その上ただそこに居るだけで、ものすごい存在感なのに
目立つことは一切嫌い、お世辞を言う人も大嫌い。
心と心でしか付き合わないことから、人付き合いもあまりしなかった。
確かに気難しいところもあったし、口は最高に悪かったから
毒を吐きまくっていたけれども、そばに居る人はパパの心に触れたら
愛さずにはいられなかった。
それだけ愛情深く、大人なのに、あれだけ純粋な人を私は他に知らない。
私は娘だったから、複雑な環境にあったものの、
無条件にパパを愛していたし、パパはそれ以上に私を愛してくれていた。

繊細な芸術に携わりながらも、武士道精神をも合わせ持つ武道家でもあった。
常識よりも、マナーや礼儀、人の心をとても大切にしていた。
小さい私に教えたことは「嘘だけはつくな」ということだけだった。
正直であることを一番大切なこととして、それだけを私に繰り返し言った。

全てを楽しみ、愛して、喜びと感謝の中に生き、
何にも執着せず、何の欲も出さず、何も残さず逝った。
2011年1月6日 享年87歳の大往生。
私としては、これぞアセンションじゃないのかと思うんだ。

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スピリチュアルなことに関わる私としては、
既に死については知らない間に多くを悟っていたようで、
あまりにあっけらかんとしていたので、
妹には薄情者〜と言われましたが(笑)
表立ってかっこつけているわけでもなく、
悲しみはすでに手放し、
残された者の心に共感し涙するということしか出来ませんでした。

私はパパのスピリットが不自由な肉体とこの世の束縛から自由になり、
決して苦しんだり、悲しんだりしていないことを知っています。
それでもこの世の儚さとして、
感じた心の葛藤と、愛するパパとの思い出と、
パパのおもしろおかしい人生の物語を綴っていかれるように
パパというカテゴリーを作りました。
パパこそ正に、Love&joyにのみ生きた人だったから。




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